アウラの森芸術舎 磯貝さおり(2024年8月)
アーティストのDNA
8月といえば、8月6日に広島に原爆が投下され、8月15日は終戦記念日です。今回ご紹介するタンザニアの作家、ジョージ・リランガは、被爆50周年の1995年8月6日にアフリカ文化研究者の故白石顕二氏とともに広島を訪れました。その際に、広島シェターニという彫像の大作を5点制作し、広島現代美術館で展示されました。リランガは1998年に来日し、銀座のすどう美術館で個展を開催した際に、シェターニの絵をデモンストレーションとして描きました。ここではその絵を中心にお話します。
ジョージ・リランガ、シェターニ、105x250cm、1998、ペイント、銅箔キャンバス (アウラの森芸術舎所蔵)
西洋美術の影響がほとんどない環境で育ったリランガは、黒檀彫刻を彫るマコンデ・クランに生まれ、子どものころから叔父たちに彫刻を学びました。幼い頃にはキャッサバ(山芋)で彫刻の練習を始めたと言われています。生まれながらにして黒檀を彫る運命にあったといえるリランガのアーティストとしてのDNAが、彼の創作活動に大きな影響を与えました。
黒檀の彫刻家から平面画へ
マコンデの伝統に根ざした環境で育ちながら、ジョージ・リランガがなぜ1970年代に立体作品から平面図へと移行し、さらに1990年代には鮮やかな色彩を使うようになり、作品のスケールも拡大していったのでしょうか。1970年代から1980年代にかけて、彼の作品は色彩が限られたドローイングが主で、単体の作品が多く見られました。しかし1990年代に入ると、エナメルペイントを使用し、40cmから60cm四方の板に鮮やかな色を施すようになりました。その後、作品は200cmから300cmという大きなスケールへと進化し、板の代わりにより軽い銅箔のキャンバスに描かれるようになります。また、この時期には繊細な水彩画も手掛けるようになりました。特に「広島シェターニ」は厚さ3cmの立体作品で、これは2000年代に制作された立体像と1990年代の平面作品を繋ぐ役割を果たしています。最終的には再び立体作品へと戻りましたが、リランガが最初の黒檀彫刻からポップな立体像へと至る過程は非常に興味深いものです。
マタヨ,シェターニ,黒檀61x23x29 リランガ,広島シェターニ,180x90x3, 1995,エナメル/合板 リランガ, 31x15x15, 2004,エナメル/木
「エターナル・アフリカ*森と年と革命」カタログより(多摩美術大学美術館、2019)
では、ジョージ・リランガが鮮やかな色彩を使うようになったきっかけは何だったのでしょうか。リランガは、同じくタンザニアのアーティスト集団であるティンガティンガ派の技法を取り入れ、板にエナメルペイントで描く手法を採用しました。もともと、リランガが所属していた芸術の家とティンガティンガ派は交流があり、その影響があったと考えられます。1990年代のリランガの作品に見られる鮮やかな色彩と背景のグラデーションは、まさにティンガティンガ派を彷彿とさせます。特に、ティンガティンガ派の代表的なアーティストであるジャファリ・アウシが、1987年に白石顕二氏の招待を受け、東京・青山の画廊で個展を開いたことが大きなニュースとなり、タンザニアの旧首都ダラエスサラームの新聞で一面を飾ったことが、リランガにとって刺激となったようです。物理的な技法についてはティンガティンガ派から影響を受けつつも、リランガのモチーフやコンセプトは全く異なっていました。ティンガティンガ派が動物や鳥を描き、「共存」をテーマとしていたのに対し、リランガは「シェターニ」をモチーフにし、「連帯」をコンセプトとしています。
ジョージ・リランガの年譜
1943
タンザニア・リンディで黒檀彫刻のマコンデ・クラン*の7人兄弟姉妹の2番目に生まれる
1973
シスター・ジンと出会い「芸術の家」に参加。ワシントン・ニューヨーク、北欧の「芸術の家」展に出品
1990~
芸術の家から独立して色彩のついたシェター二画を描き始める。英国、ドイツ、フランス、日本、ビエンナーレにて展示。例:ロンドン・サザビーズ・カタログ表紙に掲載
白石氏招集のもと、広島原爆記念館を訪問(8/6/1995)、大作5点を描く
2000~
糖尿病の悪化で両足切断。ミッテラン文化センターで個展、アフリカ・レミックス、ヒューストン美術館、高知県立美術館等展示、ミラノ・アフリカ映画祭ポスターに採用
2005
タンザニア・ダラエスサラームにて死去
*クランとは祖先が共通であるという意識を持つ、緩やかな社会集団
1943年、東アフリカのキリマンジェロを望むタンザニア南東部のリンディに、バンツー語を話すマコンデ族の一員としてジョージ・リランガは生まれました。マコンデには、黒檀を彫って最初の女性を創り、その後夫婦となったという神話を持ちます。リランガは、精霊や伝統的な踊り、歌、祈りに囲まれて育ちました。幼少期には、数百年続く「マピコ」という儀式において、呪術師が仮面をかぶって踊り、豊作や子孫繁栄を祈り、病人を癒し、厄払いを行う姿を目にしていたことでしょう。
リランガはやがて彫刻家として自立し、1973年には旧首都ダラエスサラームに移住します。そこで、カトリックのシスターが設立した「芸術の家」に所属し、彼のアーティストとしての才能が見出されました。そして、1974年からは絵画を含むさまざまなジャンルに挑戦し始めます。この転機が、彼が黒檀彫刻から平面作品へと移行する契機となりました。リランガは「芸術の家」で新たな表現の場を得ると同時に、マコンデ族の伝統に現代的な要素を加え、独自の芸術世界を築いていきました。
1980年代、リランガは「芸術の家」の計らいでアメリカや北欧で作品を展示する機会を得ました。そして、1990年に「芸術の家」から独立すると、その後は日本、イタリア、英国、フランス、ドイツ、アメリカなど、世界各地で彼の作品が展示されるようになります。例えば、2000年3月にミラノで開催されたアフリカ映画祭では、当時リランガが好んで描いていたピンクのシェターニのポスターが街中に飾られていたといいます。
リランガは西洋美術に触れる機会もありましたが、彼が特に好んだのはピカソだけでした。残念ながら、持病であった糖尿病が悪化し、2000年には両足を切断する事態となります。そして2005年、無二の友人であった白石顕二氏の死を追うように、ダラエスサラームで亡くなりました。日本では、白石顕二氏のプロデュースにより、広島現代美術館、兵庫県立美術館、高知県立美術館、丸亀美術館、多摩美術大学美術館などでリランガの作品が展示されました。
シェターニの拡大と連鎖
では、なぜリランガはシェターニを描き続け、40cm四方の作品から200cmから300cmにも及ぶ大作へと拡大していったのでしょうか。シェターニとは、スワヒリ語で「精霊」や「妖怪」を意味します。リランガ自身、シェターニの存在を信じており、夜寝ていると彼らがやって来ると笑いながら白石氏に語ったそうです。彼の作品は下絵や構図を練ることなく、一気に描き上げられ、シェターニたちの手足が自由に伸び、隣のシェターニと繋がりながらユーモアのある表情を見せることが特徴的です。
リランガがこのように作品を拡大していった背景には、タンザニアの初代大統領ジュリウス・ニエレレの社会経済政策「ウジャマ(協同体)」が影響しているのではないかと考えられます。ウジャマは、人々の協働や連鎖、連帯を強調する概念であり、リランガのシェターニの連結性と共鳴しています。
マコンデ文化が発展したムエダ高原は、外界から隔絶された場所であり、奴隷売買や植民地政策の影響を比較的受けにくい地域でした。1960年代、モザンビークでポルトガルからの独立を目指す革命運動が起こり、その支援活動はマコンデの人々が黒檀彫刻を売った資金によって支えられていました。この歴史的背景が、リランガにとって「シェターニのウジャマ化」という確信を深めた要因であったのかもしれません。
マコンデ彫刻の中心的なテーマは「ウジャマ」、すなわち人間同士の連帯や家族です。これらは、一つの木像に無数の人々を彫り込む「ファミリー・ツリー」とも呼ばれる作品に表現されています。リランガは、この伝統を革新的に展開し、マコンデのマサキという彫刻士が始めたシェターニ像とウジャマの木彫を組み合わせ、平面作品にその精神を反映させ、新たな表現方法を生み出しました。
リランガが属するマコンデの人々が彫った彫刻には、ユーモアのある作品が多く見られます。たとえば、「両足でアクロバチックに水瓶を持つ男」や「家出を試みる妻を引き留めようとする男」などがその例です。また、先にお話しした「ウジャマ」をテーマにした作品では、棒状の彫刻に多くの人々が支え合う様子が表現されています。シェターニもその題材の一つで、語源はアラビア語の「サタン(悪魔)」であり、アラブの貿易商が伝えたものですが、マコンデ族では精霊として解釈され、気まぐれに人々を助けたり困らせたりする妖精として描かれています。シェターニは姿を自由に変えることができるとされています。
硬い黒檀の木を思い通りに彫るのは非常に困難ですが、アーティストたちはその枝や根の形からイメージを膨らませて彫刻を製作していました。リランガは黒檀から平面作品へと1974年に移行し、約20年の試行錯誤を経て、シェターニの自由奔放な表現に至ります。シェターニたちは、硬い黒檀から解放された喜びを表し、マコンデ族のユーモアあふれる表情で観る者を魅了します。モノクロの黒檀から、ティンガティンガ派の鮮やかな色彩感に触発され、ポップアートのような色使いへと進化していきました。さらに、1990年に「芸術の家」を独立し、山積みの注文から解放されたことも影響したと聞いています。
シェターニは日常生活に共存しながらも異種の存在ですが、リランガはその差異を強調せず、連帯や融合のメッセージを込めました。シェターニを通じて、タンザニアの人々の支え合いの精神や「ウジャマ」の喜びが感じられます。この作品は、1960年代に次々と独立したアフリカの国々において、脱植民地主義の過程でリランガがシェターニに注目したことが無意識のうちに表現されたのかもしれません。
リランガは誇り高い人物で、ダンスが好きで自分のダンスグループを持ち、ダラエスサラームのダンス大会で優勝するほどの腕前でした。また、スーツを着てHonda750ccのオートバイを乗り回していたという、おちゃめな一面も持っていました。
アフリカのロック・アート
アフリカには3000以上の言語があり、その文化を一括りにすることはできませんが、アフリカは人類の発祥の地でもあり、古代からのロック・アート(岩面彫刻や絵画)が存在します。2023年には大英博物館が、23,000点のロック・アートの写真からなるデジタルコレクションを発表しました。このコレクションでは、今にも動き出しそうな家畜の絵、抽象的な幾何学模様、戦士たちの姿などが見ることができ、リビコ・ベルベル文字という文字が存在していたことも初めて知りました。
これらの古代アートには作家の署名がなく、「アート」という概念も存在しませんが、それぞれの作品には独自の宇宙観が込められています。人間が創造すること—描き、踊り、歌うこと—は、祈りであり、最も純粋な人間のエッセンスです。このスピリチュアルな世界観は、リランガにも深く引き継がれ、彼の壁画的なアート・メイキングに繋がっています。
リランガは、古代のシェターニという題材に新しい解釈を加え、「博愛」や「連帯」の精神を表現しました。彼の作品は、現代の画材を用いてポップに表現され、独自の宇宙観を一挙に作り上げています。リランガの作品は、古代アフリカの精霊世界を斬新に描き出し、世界的に認められる理由でもあります。
さらに、4万〜5万年前から南アフリカのカラハリ砂漠に住んでいたブッシュマンたちは、精霊を「ピーシツワゴ」と呼び、普段は人間の姿をしているが、動物や植物に変身することができるとされています。精霊という存在はタンザニアだけでなく、アフリカ全体の人々の心に深く根ざしており、リランガはそのアフリカの魂を誇りを持って斬新に描き出しています。
現代のアフリカン・アートの流れ
1989年、パリのポンピドー・センターで初めて行われた「大地の魔術師」展は、西洋芸術の枠を超えた画期的な展示でした。この展覧会は、「100%の展覧会が地球の80%を無視している」という問題を正そうとする試みで、アフリカを含む世界各地の作品が展示され、そのアーティストたちは特に母国の政府が認める著名な作家とは限りませんでした。西洋美術界の圧倒的な存在感の中で、この実験的な試みが始まりました。
この展覧会の中心的な役割を果たしたアンドレ・マギアン氏は、ポンピドー・センターの元キュレーターで、スイス人コレクターのジーン・ピゴッチ氏の支援を受けて、アフリカ中から作品を発掘し展示しました。1990年代は、アフリカン・アートに注目が集まり、白石顕二氏の友人であり、アメリカの名門大学ハワード大学のムバイ・チャム教授はこれを「アフリカン・アートのルネッサンス」と呼びました。
ジョージ・リランガは、この「大地の魔術師」展に参加したアフリカン・アートのコレクター、ジーン・ピゴッチ氏のコレクションに含まれるアーティストの一人です。リランガのように母国タンザニアに基盤を置く作家もいますが、政治的理由などで母国に戻れない「ディアスポラ」のアーティストたちが世界中に存在し、アフリカの外からも強い発信力を持っています。現在森美術館で開催中のアフロ民藝展のシアスター・ゲイツ氏、2022年のベネチアビエンナーレで金獅子賞を受賞したソニア・ボイス氏、そして今年英国を代表するサー・ジョン・アコムフラ氏がブラック・アートを牽引します。サー・ジョン・アコムフラ氏は映像界の重鎮で、父親が独立したガーナの初代大統領ンクルマの官僚であり、1966年の軍事クーデター後に英国に亡命しました。彼もまた「ディアスポラ」の一例であり、故白石顕二氏の友人でもありました。
アウラの森芸術舎のビジョン
弊舎のコレクションには、アフリカ文化研究者である故白石顕二氏が長年にわたり収集した作品の一部を譲り受けたものがあります。2022年に弊舎がオープンした際、サー・ジョン・アコムフラ氏から心温まるメッセージをいただきましたので、一部をご紹介します。「リランガとティンガティンガ派についてケンジと交わした多くの素晴らしい会話、そしてアフリカの芸術の素晴らしさはいつか太陽の下でその場所を見つけることができるという彼の深い信念を、私は決して忘れることはないだろう。」
この「アフリカの芸術の素晴らしさはいつか太陽の下でその場所を見つけることができる」という言葉は、弊舎のビジョンである「全てのアートに陽の当たるダイバーシティとインクルーシブな世界」と深く結びついています。私たちは自分たちの過去に向き合いつつ、古代からの流れを受け継ぎながらも革新を続けるアフリカン・アートとそのアーティストたちの忍耐と創造性に学びたいと考えています。
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